「我が人生の師」川崎富作先生との50年

柳川 洋
Hiroshi Yanagawa

日本川崎病研究センター 副理事長
日本川崎病学会 顧問

川崎富作先生がはじめて国立公衆衛生院疫学部長室に重松逸造先生を訪ねて来られたのは1970年2月でした。先生が厚生省に川崎病の研究費を申請されたとき、当時の科学技術参事官加倉井駿一先生に「疫学調査をされましたか、重松先生に相談しなさい」と問われたためと伺っています。

重松先生のご推薦もあり、同年4月に「厚生省医療研究助成金による川崎病研究班(当時、小児MCLS研究班といわれた)」が発足することになりました。研究班が最初に手がけた仕事が全国疫学調査であり、私に担当を命ぜられました。これが、私にとって川崎先生との運命的な出会いであります。

以来半世紀、在りし日の川崎先生は、私にとって偉大なる人生の師であります。川崎病をとおして先生のような良き師に巡り会うことができ誠に幸運でした。先生とのさまざまな楽しい思い出、先生の優しい教えは、私の胸に強く刻み込まれ、かけがえのない宝物になっています。先生は「疫学」を強く信頼され、あらゆる場面で惜しみなく協力してくださいました。特に忘れられないのは中国との共同研究です。張拓紅先生(当時北京大学教授)の全面的な協力と支援を得て1998年以来、10か所において省レベルの大規模な疫学調査を実施してきました。常に川崎先生ご夫妻に同行していただき、川崎病の臨床像を中心に、中国の小児科医を熱心にご指導され、日中友好と共同研究の成功に大きな役割を果されました。

これから先も川崎病の原因究明を目指して、私たちを叱咤激励し、ご指導くださることを願っておりましたのに、誠に痛惜の念に堪えません。先生の在りし日のアルバムを紐解くと、お元気な先生の笑顔が彷彿としてまいり、万感胸に迫り、申し上げる言葉も知りません。先生は永遠の眠りにつかれましたが、先生の教えは多く方々の心の中に永久に生き続けることでしょう。

川崎先生、どうか安らかにお眠りください。そして私たちをいつまでも見守ってください。長い間本当にありがとうございました。さようなら。

Dr. Kawasaki in photos

川崎病と疫学の架け橋:重松逸造先生と共に(2001)
国際小児科学会で初めて国際舞台に登場(Barcelona, 1980)
Fudan University(上海)で講演の後、憩いのひととき(2005)
北京からZhang先生とDu先生をお迎えして(2016)

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